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無用なことにこそ価値がある?AI時代に見直したい「好き」の力

文具の余白

無用なことが好きだと気づいた日

最近、自分でもちょっと驚くようなことに気がつきました。
それは――私は「無用なこと」が好きだという事実。

何の役に立つでもなく、誰に褒められるわけでもない、成果も意味も見えにくいことを、
ちょこちょことやっている時間がなんとも楽しいのです。
そんな“ムダ”に見える行動に、なぜか心が癒されていく感覚。


若い頃は「無用」を切り捨てていた

思えば若い頃の私は、「無用なものなんて必要ない」と本気で思っていました。
合理的に、無駄なく、クールに生きるのが理想。
余計な感情は脇に置き、効率重視で、スマートに進んでいくのがかっこいい――そんな価値観に憧れていました。

けれど今になって思います。
当時の私は、自分の不器用さや感情の波を「なかったこと」にしようとしていたのかもしれません。
まるで、感情のないAIのように生きることを願っていたのだと思います。


「好き」の感情には、それだけで価値がある

でも最近、「無用」に見えることこそが、人生の彩りだと感じるようになってきました。
たとえば、万年筆で文字を書く時間。
書き終えたあとにインクの濃淡をじっと眺める時間。
生産性ゼロかもしれません。
でも、その時間に私は確かに「好き」という感情を感じています。

そして、この「好き」という気持ちは、ただの感情では終わりません。
それをきっかけに始めた趣味が、毎日の癒しになり、暮らしの中にゆとりをもたらし、自分を満たしてくれるようになったのです。
すると、自然と他人にも優しくなれるような気がしてくるから不思議です。


有用・無用の境界線は、時代や視点で変わる

「これは有用、あれは無用」と分ける基準は、意外と曖昧です。
時代や立場、心の状態によって、その線引きは大きく変わるものだと感じます。

取り急ぎ生きていくためには不要なことかもしれません。
でも、「それを好きだと思えること」そのものが、すでに人間らしい価値なのではないでしょうか。


いざ、“無用”の正当化!

感情的でポンコツで、ドタバタしながら生きている私。
それを恥じていた頃もありましたが、今はふと、こう思います。

むしろ、それが「AIとの違い」じゃないか?

人工知能が正解を追い求めるなか、私たちは「好き」に導かれて遠回りをする。
効率の悪さ、不器用さ、感情の揺れ――それこそが、“人間らしさ”なのかもしれません。

…というわけで、ここに来てまさかの「無用の正当化」を全力で試みております(笑)


おわりに:無用を愛する心に、これからの可能性を託して

これからの時代、AIがますます進化し、社会全体が合理性や効率性を追い求める方向に進んでいくでしょう。
そんな時代だからこそ、「無用なことを愛する心」には、むしろ希少価値が出てくるのかもしれません。

誰かにとってはムダに見えることでも、自分が心から「好き」と思えること。
その気持ちを大切にしながら育てていくことで、自分らしさが磨かれ、人生はより豊かになっていくような気がします。

無用なことの中には、**私たち人間だけが持っている「余白」や「遊び心」**がたくさん詰まっています。
それをどう活かすかは、きっと、私たち自身の手の中にあるのだと思います。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
今日もあなたの“無用”が、豊かさの種でありますように。

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