見ようとしないと、見えない
先日、公園に桜を見に行きました。
とても美しくて、ただそれだけで心がほどけるような時間でした。
満開の桜の下に立つと、不思議と余計なことを考えなくなります。
ただ目の前の景色を受け取るだけで、十分に満たされるような感覚でした。
「まだ咲いていないはず」という思い込み
ニュースでは桜の開花が伝えられていたものの、
「このあたりはまだだろう」と、どこか他人事のように思って過ごしていました。
毎日同じ道を通り、同じ景色を見ているはずなのに、
桜の存在を意識することはほとんどありませんでした。
今思えば、「まだ咲いていないはず」という思い込みが、
自分の視界を狭くしていたのだと思います。
見えているはずのものを、見ていなかった。
そんな状態でした。
実際に見に行くことで気づいたこと
けれど実際に公園へ足を運んでみると、
そこには、思っていた以上に見事に咲いた桜が広がっていました。
「もうこんなに咲いていたんだ」
人は、見たいものしか見ていないのかもしれません。
あるいは、「まだだ」と思い込んでいるものには、自然と意識が向かないのかもしれません。
日常の中にもあった桜
そう思いながら帰宅し、ふと家の外に目をやると、
今まで気にも留めていなかった場所に、同じように桜が咲いていることに気づきました。
それは特別な場所ではなく、
これまで何度も目にしていたはずの風景の中にありました。
けれど、それまでは気づかなかった。
見ようとしていなかったから、見えていなかったのです。
桜はずっとそこにあったのに、
気づいたのは、「もう咲いている」と知った後でした。
見ようとしたときに、世界は変わる
この出来事を通して感じたのは、
日常の中にも同じことがたくさんあるのではないか、ということです。
意識しなければ通り過ぎてしまうもの。
目に入っていても、心に残らないもの。
けれど、ほんの少し意識を向けるだけで、
それらはまったく違った意味を持ち始めます。
「見よう」と思うこと。
それだけで、世界の見え方は変わるのかもしれません。
小さな気づきを大切にする暮らし
忙しさや慣れの中で、
私たちは多くのものを見落としながら日々を過ごしています。
けれど、その中にはきっと、
本当は大切にしたいものや、心を和らげてくれるものが含まれているはずです。
特別なことをしなくてもいい。
遠くへ行かなくてもいい。
ただ少しだけ、目の前にあるものを「見よう」とすること。
それだけで、日常は少し豊かになるように感じました。


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