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雑多な雑記帳

文具の余白

雑多な雑記帳でいい

ノート好きの間では、必ずと言っていいほど話題に上がる「一元化か、分冊か」問題。
私自身も、長いことこのテーマに振り回されてきました。

「全部ひとつにまとめて管理したい。でも、いろんな内容が混ざると雑然として落ち着かない」
「用途ごとにノートを分けてみても、どこに書けばいいのか迷って、結局続かない」

そんなモヤモヤを抱えたまま、気づけば毎年同じ悩みに戻ってきていました。

ところが最近、ごく日常の中のふとした瞬間に、ひとつの考えが浮かびました。
――そもそも日常生活そのものが雑多なのだから、ノートも雑多であって当然なのでは? と。


日常生活は分類できない「雑多の集合体」

日常とは、そもそもカテゴリ分けしきれない出来事で構成されています。

朝起きて身支度を整え、家事をし、仕事に向かい、子どもの話を聞き、買い物をし、夕飯を作る。
その途中で、気になっていた映画の感想が思い浮かんだり、突然アイデアが降ってきたり、やりたいことが思い出されたりします。

こうした事柄を、ノートの上で「家事」「育児」「仕事」「趣味」ときれいに分類しようとするほど、むしろ不自然さが際立っていくように感じます。
生活は常に混ざり合い、予想外の方向へ流れ、感情や思考も行ったり来たりする――それが「普通」です。

そんな雑多な毎日を支えるためにノートを使うのなら、
ノートも雑多である方が、むしろ自然なのではないか。
そんなふうに思うようになりました。


ノートは生活の“縮図”でいい

これまで私は、どこかで「ノートは整っているべき」「体系だった記録こそ価値がある」と思い込んでいたのかもしれません。
でも実際には、ノートは作品ではなく、生活をまわすための道具です。

雑多であることは、悪いことではありません。
むしろ、生活の雑多さをそのまま受け止めてくれるのが、ノートの良さなのだと思います。

ページの端に急いで書いた買い物メモがあっても、
その次のページに読書の感想が唐突に始まっていてもいい。
仕事のアイデアの横に、今日の献立の走り書きがあってもいい。
それは「散らかっている」のではなく、私という人の思考や日々の流れがそのまま記録されているということ。

ノートは、きれいに仕上げるためのキャンバスではなく、
私の日常をそのまま映し出す“縮図”であっていいのです。


雑多なノートこそ、長く続く

「ノートをどう運用すべきか」というテーマは、たしかに永遠の話題なのかもしれません。
だけど今の私は、
生活が雑多である以上、ノートも雑多であるのが自然
という答えに、じわじわと辿り着いています。

肩の力を抜き、枠にとらわれない雑多なノートを楽しんでみる。
その手軽さと自由さこそが、続けるうえでいちばん大切なのではないかと思うのです。

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