心配事は、静かに居座り続ける
私は、一度心配事が生まれると、それが心の中にずっと居座り続けてしまうタイプです。
大きな問題でなくても、ほんの小さな引っかかりが、気づけば頭の片隅を占領してしまいます。
「今は考えても仕方がない」
「なるようにしかならない」
そう自分に言い聞かせても、ふとした瞬間に思い出しては、また同じところをぐるぐると回ってしまう。
最近も、まさにそんな状態が続いていました。
解決したあとに残った、妙な疲労感
先ほど、その心配事は無事に解決しました。
結果的には、何事もなく、拍子抜けするほど穏やかな結末でした。
それなのに、なぜか心には疲れだけが残っていました。
「あれほど気にしなくてもよかったのに」
そう思う一方で、心配していた時間の長さを思い返し、少しだけ虚しい気持ちにもなりました。
人生は、心配の材料に満ちている
考えてみれば、人生には心配しようと思えば、いくらでも材料があります。
健康のこと、家族のこと、先の見えない将来。
今日が無事に終わっても、明日の不安はまた別に現れます。
すべてを真剣に受け止めていたら、心はとても持ちません。
それでも私は、ときどき必要以上に心配を抱え込み、自分で自分を疲れさせてしまいます。
対策できることと、気にしなくていいこと
今回の出来事を振り返って、改めて思いました。
心配には、二種類あるのだと。
ひとつは、対策ができる心配。
もうひとつは、考えてもどうにもならない心配。
前者であれば、備えをすればそれで十分なはずです。
後者については、どれだけ考えても状況は変わらない。
それなのに私は、後者の心配を抱え続けてしまうことが多いのです。
気分が生む、理由のないモヤモヤ
特に厄介なのは、明確な理由がないのに、急に何かが気になり始める瞬間です。
疲れているときや、少し気持ちが沈んでいるときほど、そうしたモヤモヤは顔を出します。
根拠の薄い不安は、放っておくと大きくなりやすい。
気づけば、「もしかして」「もしも」が頭の中を占領してしまいます。
不必要に気にしない、という選択
心配しないことは、私にとって簡単なことではありません。
長年の思考の癖は、そう簡単には変わらないからです。
それでも、今回の経験を通して思いました。
「不必要に気にしない」というのは、性格ではなく、選択なのかもしれない、と。
傾向が見えているなら備えればいい。
そうでなければ、いったん手放してもいい。
小さな練習を、これからも
心配を完全になくすことはできなくても、
心配に振り回されない練習はできる気がしています。
気がかりなことが浮かんだとき、
「これは今、考える必要があるだろうか」
そう問いかけるだけでも、少し距離が取れる気がします。
不必要に気にしない練習。
それはきっと、心を軽くするための、小さな積み重ねなのだと思います。


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