捨てられなかった国語便覧を久しぶりに手に取ってみた話

日々のこと

学生の頃から捨てられない一冊があります。それは、国語便覧です。

教科書やノートはほとんど処分しました。

結婚や引っ越しを何度か経験した今でも、学生時代のものとして手元に残っているのは、国語便覧と地図帳くらいです。

地図帳は実用的ですから、残っていても不思議ではありません。

でも、国語便覧は違います。

普段開くこともありませんし、実用性もほとんどありません。

それなのに、なぜか捨てられない。

先日、本棚の奥から久しぶりに取り出して、何気なくページをめくってみました。

すると、学生時代の自分が、ふっと戻ってきたような気がしました。

文豪の人生が、少し怖かった

学生の頃、私は国語便覧を眺めるのが好きでした。

作品そのものではなく、文豪たちの生涯を読むのが好きだったのです。

どんな時代を生き、どんな作品を書き、どんな最期を迎えたのか。

人物紹介を読んでは、「こんな人生もあるんだ」と不思議な気持ちになっていました。

でも同時に、怖さも感じていました。

文学の世界には、自ら命を絶った人が少なくありません。

死が、どこかすぐ隣にあるように思えたのです。

当時の私は、漠然とこう考えていました。

「この世界には、あまり近づかないほうがいい。」

今思えば、それは文学そのものというより、人の心の深いところへ入り込むことへの怖さだったのかもしれません。

理系を選んだ理由

私は、自分では文系タイプだと思っていました。

それでも進学先は理系です。

理由の一つは、答えのある世界に憧れていたから。

文学のように人の感情や心を見つめ続ける世界より、ゼロかイチかがはっきりする世界のほうが、自分には向いている気がしていました。

もっと、さっぱり生きられると思っていたのです。

ところが、実際の理系はそんなに単純ではありませんでした。

研究に用意された正解はありません。

仮説を立て、実験し、失敗し、また考える。

思っていた以上に泥くさく、地道な積み重ねの世界でした。

結局、人が何かを探究することに、文系も理系も、それほど大きな違いはないのかもしれません。

「異常な秀才」という言葉

久しぶりに国語便覧を開くと、芥川龍之介の紹介に「異常な秀才」という言葉がありました。

その表現に、学生時代の私は強く惹かれていました。

もちろん、作品を読み込んでいたわけではありません。

むしろ、作品に漂う静かな狂気のような空気が少し怖くて、ほとんど読むことができませんでした。

それでも、その圧倒的な知性や、言葉で人の心を描き出す力には、強く憧れていたのだと思います。

今なら、もう少し自由に読める気がする

若い頃の私は、感受性が強いことは、生きづらさにつながると思っていました。

いろいろなことを深く考えすぎてしまう。

傷つくことも多い。

だから、できることなら鈍くなりたい、とさえ思っていました。

でも最近は、少し考えが変わってきました。

感受性は、生きづらさだけを生むものではない。

世界をより深く、より彩り豊かに味わうための力でもあるのだと。

美しい言葉に心が動くこと。

何気ない出来事の中に意味を見つけること。

そんな小さな積み重ねが、自分の世界を少しずつ豊かにしてくれる気がしています。

だからこれからは、本を読み、言葉に触れ、心が動いたことを大切にしていきたい。

うまく表現できなくてもいい。

感じたことを、自分の言葉で少しずつ残していきたいと思います。

感受性も、言葉も、使わなければ少しずつ鈍ってしまうかもしれません。

だからこそ、これからは惜しまず使っていきたい。

学生時代には、少し怖く見えていた文学も、年齢を重ねた今なら違う景色が見えそうです。

本棚に国語便覧を戻しながら、そんなことを思いました。

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